バッハ・コレギウム・ジャパン「ミサ曲ロ短調」
28日火曜日、サントリーホールで鈴木雅明さんとバッハ・コレギウム・ジャパンによるJ.S.バッハ ミサ曲ロ短調BWV232を聴いてきました。サントリー音楽賞受賞記念コンサートとのことで、バッハの265回目の命日であるこの日に合わせたそう。間違いない布陣による間違いない選曲というわけで、楽しみにしていました。
ロ短調ミサをコンサートで聴くのは3回目。私はこの曲がきっかけで宗教曲にハマるようになったこともあり(といっても全然最近のことで、4年前とかの話)、多くの人にとってそうであるように、私にとっても特別の曲です。今年はLFJでコンサートに行きまくってしまったために、翌月の調布音楽祭へは行けなかったので、5月以来のBCJの公演でした。
第1曲のKyrieがまず素晴らしくて、言葉の歯切れの良さ、遅すぎず早すぎずのテンポで、すっと頭に入ってきました。あとホールの効果か、思っていた以上に音量が大きく感じられて。座席はA席2階の最前列で、位置的にはステージ下手、合唱を真横から見る席だったんですが、十分迫力があった。指揮をする雅明さんの表情や、チェンバロの優人さんをはじめとするコンティヌオの手元をじっくり見ることができたり、ほぼ対面のオーボエの音がよく響いて聞こえたのはラッキーでした。逆に、ステージ前方に出て歌うソリストの声が聴きづらかったりというのはあったものの。
聴いてて思ったのは、ロ短調ミサをコンサートで観ると視覚的な情報量が多すぎるなあということ。軽く聞き流せる曲が1曲もなくて、それぞれのパートが独立して、しかも掛け合いながら展開していく様子をどう追っていけばいいのか迷ってしまう。これは何回でも観たい!後で気づいたんだけど、NHKのカメラが入っているようだったので、またBSとかで放送するのかもしれない。
特に印象的だったのは、Cum Sancto SpirituやEt Resurrexitのような派手な曲で、エネルギッシュさというか生命力と荘厳さを両立させるという意味では、BCJの魅力が表れるポイントかなと思いました。もちろん、CrucifixusやAgnus Deiのようなひたすら内省的な曲における表現力も素晴らしいのだけど。特に音が消えていく瞬間の繊細さがいいなと思う。あまりにも集中しすぎて、休憩挟んだ2時間があっという間で、終りのほうは、ああ…もう終わってしまう…という感じでした。
ロ短調ミサって、マタイやヨハネのようなストーリー仕立てでもないし、涙を流すみたいな劇的な場面というのはそんなになくて、そういう方向の美しさではなく、もっとこう、シリアスに生と死を突き付けられて、君はどう考えているんだと問われるような感覚。宗教的感覚はまるで分からないけれど、こんなに完全な音楽を前にして、人知を超えた得体の知れない何かに対して敬虔にならずにはいられないというか。265年前に亡くなった人の音楽を聴いているというよりも、もっと切実な「リアルタイムの音楽」として受け止めています。ずうっと余韻が後を引く素晴らしいコンサートだった。