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音楽と創作についてのメモ

日記2012-10-22 20:08

先日、東京と山梨を結ぶノイズ/アンビエントバンド「zhis(ジス)」の杉山さんから、ファーストアルバム完成のお知らせをいただき、それを機に渋谷で夕飯をご一緒しました。アルバムの感想などは、後日別の記事に書くとして、話した内容が(お酒が回っていたわりには)振り返るとなかなか濃いものでした。いくつかを思い出しつつ、メモ的にまとめてみます。

ちなみに、私自身は常日頃から考えていることを話した、というだけのつもりなのですが、言葉にしたことで初めて認識を新たにしたり、別々の思考の断片どうしが関連付けられる場面もありました。話すことって大事ですね。
以下は、主に自分の発言に基づくものを中心に抽出したつもりです(つまり、対話のまとめではありながら、必ずしも各項についてzhis杉山さんと意見が一致しているわけではないと思いますので、念のため)。

人生は短い

言うまでもなく、音楽とは時間によって規定される芸術表現であって、我々の一生が有限である以上、実際に聴くことのできる曲の総数もまた有限です。そしてそれは、普段漠然と思っているよりもずっと少ないのかもしれません。つまらない作品をいやいや聴いているような暇はないし、逆に歴史的に多くの人が価値を認めてきたような作品に対しては、謙虚に耳を傾けるべきです。なぜなら、その人にとっても普遍的な価値を感じられる作品に、効率よく出会える可能性が高いからです。

このように、主体性を持って音楽と向き合うのは、必然的に「選択する」という行為と同義になります。音楽を生涯の友とするということは、古今東西の無数の作品のなかから、意識的にであれ無意識的にであれ、聴くべきものを選んでいくことの繰り返し、積み重ねなわけです。

「選択」は創造的行為

ところで、私はDJよりも先に作曲を始めたこともあって、昔はDJに対しては「ただ他人の曲をかけているだけ」という先入観がありました(ほんとに高校生の頃の話ですよ)。曲をゼロから作るときのようなクリエイティビティはないと思っていたんですね。

しかし今になって分かるのは、かける曲を選ぶっていうのは、それだけですごく独自性の強い、きわめて創造的な行為であるということです。DJに限ったことではなく、「選ぶ」ということ自体がです。
そもそもの作曲にしたって、リズムマシンから、サンプリングCDから、シンセから音を選ぶわけですよね。のみならず、様々なアーティストや音楽スタイルの影響を受けた結果としてのアウトプットを、果たして本当に「ゼロから生み出した」ものと言えるのかというと、きっと違うと思うんです。何も知らない赤ん坊が適当に鳴らした音が、価値ある作品として評価されることがないのと同じように、取捨選択という主体的なアクションそれ自体が、その作家のオリジナリティなのです。

サンプリングやコラージュ、リミックスといったようなものが創作活動と認められるようになったのは、なにも近年になってからの話ではありません。既存のものを切り貼りして別のものを作る、ということは、もっとずっと昔から実践されてきました。J.S.バッハはその意味での天才で、既存のあらゆる音楽様式を総合したばかりでなく、もっと直接的に、他の作曲家の作品の編曲や、今でいうリミックス的な作品も多く残しています(『ゴルトベルク変奏曲』第30変奏のクオドリベットは有名)。

21世紀という時代の特殊性

これに対して、現代ならではの特異性がどういった点にあるかというと、やはりテクノロジーの進歩に依るところが大きいように思われます。
重要なポイントがざっくり2点あって、ひとつは、レコーディング技術の誕生。これにより「演奏された音楽」は初めて、一回性を超えた、普遍的な作品となりました。グレン・グールドのコンサート・ドロップアウトは、彼の考えかたの先進性を示すエピソードとして繰り返し例に挙げられる通りです。

もうひとつは、グローバル化。分解・再構築による作品の、ひいては文化の深化というのは、かつては限られた地域と紐づいたものでしかなかったのが、いまや一夜にして地球の裏側で進行していたりする。これはもちろん、インターネットの恩恵ですよね。
そして我々は、ひとりの青年がベッドルームで作り上げたトラックが、ラブ・パレードのようなところで何百万人を躍らせてしまうというダイナミズムの発現もまた、目の当たりにしてきました。

さて、アーカイブされる録音の数が膨大な量になり、また触れることのできる対象が地球規模に広がってしまうというのは、たかだか7、80年の一生を生きるひとりの人間にとってみれば情報過多、それも、本来自然に与えられる情報の量からすると、超絶な情報過多です。
20世紀において人々は、情報を取捨選択すること(=フィルタリング)を、新聞・雑誌・テレビなどのメディアにアウトソースしてきました。けれど、もはや本当に深く関わりたい、知りたい分野については、敢えて外注に甘んじる必要はない。インターネットなり何なりを駆使して、積極的に「選ぶ」という創造性を、自由に発揮することができます。

音楽と向き合う「覚悟」

ただ、どの分野の情報を主体的に選んで、どの分野の情報選びをアウトソースするかというのは、人それぞれです(それは誰にも強制されないものだし、強制されるべきではないと思います)。とりわけ、自ら人生にとって価値あるものとして、「音楽」に一定のウェイトを置いている人々というのは、一見多いようでいて少ない。
別に音楽なんかなくてもという人、あるいはメディアにフィルターされた音楽に触れているだけでいいという人は、多いです。というか、周りに音楽好きが多い環境だとどうしても麻痺しがちですが、世の中的にはそれが大半のようです。学生の頃はまだしも、30を過ぎてみると身をもって感じます。実際に、知人のうち何人かは、それぞれの理由で作曲なりDJなりをやめてしまいましたし。

よく、音楽で成功できなかったら道を諦める決意で地方から出てくる若者、なんてのがありますが、あれって決意でも何でもない。本当に覚悟している人にとっての音楽というのは、ある日を境にやめる・やめないみたいなものではなくて、空気や水のような存在です。人生の一部になっているから、まさに人生においてどんな局面になろうと、やめるという選択肢が現れない。

そこへ行くと、地方の音楽シーンの熱量はすごいですよね。テクノでいうと、よく東北地方や九州、広島などの話が出るのですが。生活をしながら音楽をするというスタイルが定着していて、だからこそいざアウトプットするという段になると、一切の妥協がないように見えます。それって、テンプレ的な悲愴な「覚悟」とは全然違う意味での覚悟の表れなんだと思っています。

散文的な内容になってしまいましたが、要旨はおおよそ上記のようなものでした。
今後また、整理して考えてみたいテーマです。

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