blog

フリーランスのWeb制作 : デザイン、HTML/CSSコーディング、CMS
EPXスタジオ www.epxstudio.com

マタイ受難曲に関する覚え書き

クラシック2014-02-28 23:27

IMGP3285

ヤーコプスのマタイ

ルネ・ヤーコプス(René Jacobs)によるマタイ受難曲BWV244を買いました。昨年2013年に発売されて話題になった作品で、タワレコとかでも大きく取り上げられていたし、たしかTwitterで福田進一さんかどなたかも絶賛していた。私もharmonia mundiのプロモーションビデオを見てからずうっと気になっていて、でも4,000円ちょっとするし、他にもまだ聴いてない録音いっぱいあるしという感じで迷っていたのです。

しかしこのビデオがまた素晴らしい。これは付属する46分の映像DVDからの抜粋なのですが、この録音の特徴が短く説明されています。通常は慣例的に左右に配置される2群の合唱団を、資料から推察されるトーマス教会での1736年聖金曜日の初演時に倣って、前後に配置したというもの。
サラウンドならともかく、自分の2chの音響で聴いてどうなのかという点に初めは懐疑的だったのですが、ちゃんと通して聴いてみるとこの効果は絶大で、第1曲の"Wohin?"からして奥からだんだんと迫ってくる。つまり、左右配置のときは客観的に捉えていた「見よ―どこを?―私たちの罪を」という掛け合いが、より立体的に、自分の問題として迫ってくるというか。第60曲のコール&レスポンスも、何ごとかが進行している空間の真ん中に立っているという当事者感がすごい。

結構な大編成ながら、オーセンティックな格式ばった悠然とした演奏ではなく、今どきの古楽らしいきびきびとしたドライブ感があって、すごく好きな感じでした。私にとって初めてきちんとCDで通して聴いたマタイが、この録音で良かった。

鈴木雅明氏によるマタイ受難曲レクチャー

4月にバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)によるマタイを聴きに行く予定です。それに先立ち、指揮の鈴木雅明氏による本作についての市民向けのレクチャーが、同じ会場のミューザ川崎で開催されるというので、行ってきました。と言っても先月1月21日の話なので、もうだいぶ経つのですが。手元のメモを参照しつつ、個人的に勉強になった点を覚え書きしておこうと思います。

場所はミューザ川崎の中でもちょっとした小会議室のようなところで、集まったのは平日の午後とあって相当なご年配の方が中心でした。というか、私も仕事の状況次第では行けなかったんだけど、なんとか都合をつけて。音大の学生でもなんでもない一般市民が、バッハの大家による講義を直接受けることができる機会なんてそうそうないし。

最初は、本作の成り立ちやキリスト教の礼拝についての基礎的な説明から。鈴木先生は平易な語り口ながら非常にテンポ良く、ユーモアを交えながら解説してくださった。新しく出版されたバッハ自筆譜の本の実物も見せてくれて(ものすごく大きい本)、この清書ではバッハ本人がインクを注いだ箇所や、赤字を入れた箇所なんかも克明に残っているとのこと。

マタイについて鈴木先生が繰り返し強調していたのが、本作は「瞑想」を目的にした作品であるという点でした。
12,3世紀までは「勝利の人」というイメージで伝えられたイエスが、第2回十字軍の敗北を経て、「受難の人」というイメージに変わる。またそれによる同情(compassion)から、その受難を追体験することを目的として生まれたのが15,16世紀におけるルター派の受難曲であるとのことですが、その大きなストーリーのなかで自分とイエスをどう関連付けるかという点に重点を置くほどに、その音楽は多声的、複合的になり、厳格な教義からは外れて行ってしまう。これを禁欲主義に対する敬虔主義(pietism)と言うそうで、これは敬虔な思いを表現したいという「私」の追求であって、マタイ受難曲は(ヨハネ受難曲よりも)このウェイトが比較的大きいことが特徴なのだそうです。

その説明なかで面白いと思ったのが、この音楽はつまり、教義に対する瞑想の「材料」であるために、あくまで「ドラマ」ではないのだということ。よくオペラのようにドラマチックだとされるし、確かにそういう側面もあるけれども、そういう見かたで見ていくと、確実にストーリーが破たんしている箇所がいくつもある(第41曲でユダが自殺したあと、第42曲でそのユダの視点でバスが嘆きのアリアを歌っているなど)。要するに、整合性のとれた物語なのではなくて、瞑想という役割に徹している。

続いて、レクチャーは楽曲についてのより具体的な説明へ。第1曲の合唱Kommt, ihr Töchter, helft mir klagenを例にとり、まずその役割についての解説がありました。

SCN_0001-3

テクストを見ていくとこれは実は、本編の「ダイジェスト」なんですね。そのあとの楽曲から要点を引用してきて対話形式に組み込みつつ、18世紀には有名だったコラール(O Lamm Gottes unschuldig)もミックスして、全部の聴きどころをひとつにまとめている。しかも、対話部分とコラールのテキストは意味的に対応しているという、ものすごく巧みな構成になっているのでした。
音楽的にも、バッハらしい意味づけが散りばめられていて、まず冒頭の「タータ タータ…」という単調な通奏低音のテーマは、十字架を引きずって歩く重い足取りを表現している。また、その音がE(地上)から13音の階段を経てC(十字架)に達し、14音目で1オクターブ下のC(私)に至るという音型などが、ポジティフオルガンによる実演を通して示されました。

とこんな感じで、そのあともオーボエ・ダ・カッチャという楽器の象徴性について、作中に5回現れる印象的なコラールO Hauptvollについてなど、いろいろなトピックについての解説があり、この曲をこれから聴き込んでいくにあたって、すごくためになる話が聞けました。本もいくつか読んだけど、実際に音を聴きながら要点を絞って説明してもらうと、さすがに素人にも理解しやすかったです。

Laß ihn kreuzigen!

私にとって、ヨハネ受難曲はわりと合唱が中心で分かりやすくて、すっと入って行けたのだけど、マタイは登場人物の心境や、あるいは信仰者が個人的な瞑想に入るべきポイントを想像しながら聴かなければならないので、ずっと集中力を要するし、ハードルが高かった。それでも、第二部のペテロの否認以降の劇的な展開は、すぐに好きになれた。

DVDのなかで、ヤーコプス本人が49曲目のソプラノのアリアAus Liebeについて語っているのだけど、永遠に聴いていたいくらいの美しい音楽なのに、それは終わってしまう。しかも、その後に来るのが強烈なLaß ihn kreuzigen!(十字架につけろ!)という、非情な民衆によるフーガ形式の合唱というコントラスト。先のYouTubeのPVの冒頭部分はここですね。
ヤーコプスは、ここでは前のアリアからCDを止めずに続けて聴くべきだと言っていて、確かにこの落差の大きさこそが人間の罪(信仰を持たない私にとっての理解としては、人間の不完全性というか)の大きさであって、受難のストーリーの特色を表していると思いました。このあたりのことは、以前観た映画の感想にも書きました(映画『パッション』 | EPX studio blog)。

この記事の関連タグ:

このエントリーをはてなブックマークに追加