『バッハからの贈りもの』
このまえコンサート情報をチェックしていて、来る3月と4月にわたって、ミューザ川崎シンフォニーホールでバッハ・コレギウム・ジャパン(以下BCJ)によるJ.S.バッハ「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」の連続演奏会があることを知る。以前ここで聴いたBCJの管弦楽組曲が素晴らしかったことを思いだし、気になり始めました。
といっても、私にとって受難曲のような大作はまだ未知の領域で、きちんと腰を据えて聴いたことがない。抜粋版では親しんでいるけれど(例えば『Passion~ポートレイト・オブ・BCJ』とか)、全曲通してはまだ。長いからといって、流して聞いてみてもあまり意味がない類のもので、ひとつひとつ言葉の主旨を理解して聴く必要があるし、それには前提としての聖書あるいはバッハの音楽に対する理解も要るだろうし。なかなかハードルが高い。
そこで、前から読みたかった本を書店で見つけたので読んでみることに。鈴木雅明、加藤浩子『バッハからの贈りもの』(春秋社、2002年)です。本書は、音楽ライターの加藤浩子さんが、没後250年にあたるバッハ・イヤーの2000年に、BCJの指導者であり演奏家、研究者の鈴木雅明さんにインタビューした内容を再構築したもの。
話題は多岐にわたり、バッハの魅力からその生涯、BWV147を例にとったカンタータの分析、ヨハネ・マタイ・ミサ曲ロ短調の解説、器楽曲とオルガンの解説、BCJについて、などなど。
インタビューに基づいているため、終始語り口調で平易に読み進められる一方で、こういうときはこう、という具体例を示す場面で曲名がたくさん出てくる。で、その度にYouTubeで検索して、なるほどと思ったり。今は便利ですね。また、文中に引用される譜例が豊富で、自筆譜のコピーもふんだんに扱われていて、それによって理解が深まる箇所も多くありました。
実は今年これに先立って、あるドキュメンタリー作品を観ました。英BBCが制作した"Bach: A Passionate Life"という90分の作品で、どういうわけだか、YouTubeで全編観ることができます。こんな良作、ちゃんとお金を払って観たいからBBCでオンデマンドとしてホストしてくれればいいのにね。
BBC - Bach: A Passionate Life - John Eliot Gardiner - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UiQbppQq54E
著名な指揮者であるジョン・エリオット・ガーディナー自らが、バッハにゆかりのあるドイツの各都市を巡ってその生涯を辿るというもので、映像・内容ともにものすごく充実しています。今までに観たバッハ関連の番組のなかで、一番よかった(ガーディナー先生のプロのアナウンサーのような流暢なナレーションにもびっくりする)。
冒頭で、一般的なバッハのイメージとして、フロックコートとカツラを装った格式ばった人物とみなされがちであるが、と断ったうえで、次のように説明する。
The music tells us something completely different about him. It's full of energy, full of dance, full of life.
これは、私なんかにしては強く共感するもので、つまりとっつきにくい音楽では全然ないんですね。その意味で、この映像で明かされるバッハの姿はとても人間らしく身近に感じるし、関連する主要な作品も多く取り上げられているので、馴染みがない人にこそおすすめできます。
話は戻って本書ですが、オビにも引用されている「序にかえて」からの一文が、また違う形でバッハの音楽を端的に表現しています。
思えばバッハのフーガの美しさは、単に対位法の規則に則っていることから生まれ出るものではない。むしろ、ひとつひとつの旋律にうねりがあるのだ。舞い上がる音階があるかと思うと、突如として下降し、下降したかと思うと飛びあがってはまた降りる。その旋律の動きは、弾くものをも聴くものをも巻き込み、直接体の奥深くに作用する。だからバッハの音楽は体で聴くもの、そして体に効く音楽なのだ。
鈴木氏は続くインタビューのなかで、これをジェットコースターのようなスピード感に喩えていて、しかもこれは単に速いということではなく、前に進む勢い、力強さ、ドイツ語でいう Fortspinnung(=紡ぎ出し)ということであると。これは先のドキュメンタリーのなかでガーディナー氏が語っているバッハの魅力とも共通しています。
バッハの音楽が放つ、連れ去られるような颯爽感を感じとるほうが分かりやすいと思うんですよ。そして、バッハの場合、連れ去られてゆくその行き先が何もない空虚な世界なのではなく、非常に濃密で深い世界に直面するというわけです。だから振り返ってもう一回ゆっくり見れば見るほど、過ぎ去ったところにどんなにたくさんのことが書きこまれているかがわかる。(p.12)
そしてこの書きこまれた情報の密度が膨大で、時間的にももっとも長大な作品が、ヨハネとマタイの2つの受難曲。これらの特徴や違いについても、本書では具体例を交えて分かりやすく説明されていました。あくまで研究書のようなものではなく講義録のようなものですが、それだけに単純な好奇心には十分に応えてくれる内容でした。
本書の最後のセクションでは、キリスト教に対する信仰についても触れている。つまりバッハの世界を理解するにあたって、信仰が必要なのかどうか。鈴木氏は信仰者でもあって、対するインタビュアーの加藤氏は仏教徒で、そのあたりも忌憚ないやりとりが交わされていて、まったく宗教を持たない私としても、とても興味深く読みました。
さて、これを踏まえて、ようやく両受難曲を聴き始めたところです。ほかに対訳なども参照しながら思うことは、なんというか、詩の内容に関しては意外に分かりやすい。つまりしっかりストーリー仕立てになっていて、あまり抽象表現がなく(少なくともラテン語の典礼文を元にしたミサ曲よりは)、前後関係もはっきりしている。既にダイジェスト版で親しんだ曲もいくつか入っていて、これは、これから聞き砕いていくのが楽しみだなと思えます。
そういえば、ミューザ川崎主催のコンサートに関連して、同ホール内の施設を利用した鈴木氏による受難曲のレクチャーが今月あって、幸運にもこのチケットをとることができた。音大生でも何でもない一般の市民が、直接講義を受けられる貴重な機会なので、楽しみにしています。
鈴木氏が主宰するBCJは、2013年、18年間をかけてついにバッハのカンタータ全曲を演奏・録音するという偉業を成し遂げています。